イエール大学の人気講義『「死」とは何か』は僕の心には響かなかった

# 今朝はやはり、朝のスターバックス。

よく眠り、太陽がのぼってきたので、エネルギーのきらめきがある。

脊柱管狭窄が何故か、驚くほどましで、人間が歩ける喜びがある。

歩くというのはとても複雑な機能だ。

# ほんの少し、体のモジュールが壊れるだけでうまくいかない。

足モジュールが頑張っている。

バランシングモジュールや、両翼としての手のモジュール、ぎゅっとリュックサックの紐を握りしめ。

意識モジュールがそれを見つめ、スマホモジュールが、立ち止まってスマホを見ようかどうかと迷う。

# だけど今は、昨夜の話をしよう。

僕は最近、死に取り憑かれている。

あるいは死の妄想に。

後者の理解のほうが正しい。

# 体が少し故障気味なのも関係しているかもしれない。

35歳だ。

この呪術的な年齢が影響しているのかもしれない。

真っ白な画用紙がほしい。

# どんな些末なフォントも目につかないような大きな画用紙が。

昨夜、僕が人間がダメになるハイバックリクライニングソファでくつろいでいると、死が押し寄せてきた。

最近は自分の命を惜しんで涙することばかりだ。

もう人間時間にして35年も付き合ってきた相棒なのだから、愛着が湧いても仕方がない。

# いやむしろ死を感じるために部屋でひとりになったと言っても過言ではない。

遠くから妻が料理を作る音がほんのすこしだけ聞こえる。

妻が僕のためにかけてくれた音楽も少しだけ。

MacBookを開きたい、Twitterをやりたいと思いながらそのエネルギーもなく、眠りの圧力に身を委ねる。

# 自我の結合がほどから瓦解していくが、僕にとってはもう、それほど珍しいことでもない。

普段、強力に結合しているモジュール同士の働きが、ほどかれるだけだ。

自己は結合によって起こる。

Twitterを思い浮かべてもそれは現実ではなく、Twitterを見た瞬間にしかその現実は起こらない。

# 他はすべて頭の中でめぐる妄想だ。

だけどこの妄想の連鎖を含めてTwitterを形成しているのかもしれない。

遠くから聞こえる音楽は本当に好きだ。

ひとりぐらしであれば孤独すぎる。

# 僕は本当にかすかに人の物音がする、雰囲気だけがある場所に過ごしても良い。

それだけで相当な分の孤独は癒やされるだろう。

そんなことを考えながら眠りに身を委ね、死の感覚に身を委ねていく。

だけれどこの死の概念も妄想だ。

# なぜなら体験したことがいちどもないのだから。

体に起こる何らかのホルモン反応と一緒に、死に関しての思考が浮かび、まるで死をなかば体験しているかのような気持ちになるだけだ。

とても甘美な感覚だ。

ただひたすらに悲しいが、生への執着も、今では燃えるような業火ではなく、ただ酸っぱいレモンのように感じる。

# もっとだいじなことを何個も考えた気がするのだけれど、次の朝になった今は、もう色々なことを忘れてしまった。

なぜ人が死ぬのかという問いに答えはなく、Twitterでもバスったり話題になったりはしない。

死に関する何かのベストセラーが最近、邦訳されて話題になっていた。

ちょっとした売上を記録していたような。

# だけどその本が日本で10万冊売れたとしても、1億数千人の中で、死に興味を抱く人は、ほんのわずかだ。

内心でひそかに死に取り憑かれる人もいるだろう。

余命宣告を受けた人など。

だけど相当に視聴者好みをするストーリーでも作らなければ、やはり、死は大きな話題にはのぼらない。

# この世の中から苦痛をもってして、あるいは安らかな笑顔で、ひとりひとりと人知れずに消えていくが、まるで永劫に続くかのように、町並みでは、人が笑いながら歩いている。

それを見るとまるで、この世界に闇や苦痛など存在しないかのようだ。

僕は死ぬことも、死ぬ間際に起こるであろう苦痛もとても怖い。

僕は死に取り憑かれている。

# 死について書かれたその本は、いちど開いてみた。

通りがかりに。

だけど僕が求めるようなものではなかった。

とても哲学的で、ただの思考練習、思考実験をしているような、古きゆかしき哲学書のような本だった。

# そうではない。

死の本質は思考で完結するようなものではない。

圧倒的な恐れの感覚とともに、生命の本質に迫るものでなければいけない。

だけど僕には前野隆司の本があるので、もう大丈夫。

# 問題の80%以上は解決している。

小説の教団Xもある。

本棚に飾っておこうか。

表紙だけが見えるような、インテリア用の本棚を部屋に置こう。

# いつ死んでも悲しくないような、人生で読んできた本のインテリアを、部屋に置いても、いずれ処分はされる。

今は朝。

死の実感はすっかりと影を潜め、僕は影あそび、ただただ実感のない文字を連ねながら、あの実感の中で見つけられたものを、再発見しようとするが、できず、空虚に。

昨夜は死についてよく考えた。

# その後によく眠ると、体にエネルギーが起こり、生命について実感し、考えることが出来る。

夜は死ぬことを考え、朝は生きることを考える。

もっともっと人生の終わりについて、実感しながら生きて、死んでいけますように。

死ぬは生きることであり、生きることは滅びることだ。

# この実感なくしては、生まれてきた意味がない。

意味が消えるまで、意味を考え続ける、妄想の心と、思考実験のキーボード。

# Links

- [いなうらゆうまはここにいた
2019-03-12](https://github.com/YumaInaura/YumaInaura/issues/752#s1552341974)

# ja

イエール大学の人気講義『「死」とは何か』は僕の心には響かなかった。今朝はやはり、朝のスターバックス。よく眠り、太陽がのぼってきたので、エネルギーのきらめきがある。脊柱管狭窄が何故か、驚くほどましで、人間が歩ける喜びがある。歩くというのはとても複雑な機能だ。ほんの少し、体のモジュールが壊れるだけでうまくいかない。足モジュールが頑張っている。バランシングモジュールや、両翼としての手のモジュール、ぎゅっとリュックサックの紐を握りしめ。意識モジュールがそれを見つめ、スマホモジュールが、立ち止まってスマホを見ようかどうかと迷う。だけど今は、昨夜の話をしよう。僕は最近、死に取り憑かれている。あるいは死の妄想に。後者の理解のほうが正しい。体が少し故障気味なのも関係しているかもしれない。35歳だ。この呪術的な年齢が影響しているのかもしれない。真っ白な画用紙がほしい。どんな些末なフォントも目につかないような大きな画用紙が。昨夜、僕が人間がダメになるハイバックリクライニングソファでくつろいでいると、死が押し寄せてきた。最近は自分の命を惜しんで涙することばかりだ。もう人間時間にして35年も付き合ってきた相棒なのだから、愛着が湧いても仕方がない。いやむしろ死を感じるために部屋でひとりになったと言っても過言ではない。遠くから妻が料理を作る音がほんのすこしだけ聞こえる。妻が僕のためにかけてくれた音楽も少しだけ。MacBookを開きたい、Twitterをやりたいと思いながらそのエネルギーもなく、眠りの圧力に身を委ねる。自我の結合がほどから瓦解していくが、僕にとってはもう、それほど珍しいことでもない。普段、強力に結合しているモジュール同士の働きが、ほどかれるだけだ。自己は結合によって起こる。Twitterを思い浮かべてもそれは現実ではなく、Twitterを見た瞬間にしかその現実は起こらない。他はすべて頭の中でめぐる妄想だ。だけどこの妄想の連鎖を含めてTwitterを形成しているのかもしれない。遠くから聞こえる音楽は本当に好きだ。ひとりぐらしであれば孤独すぎる。僕は本当にかすかに人の物音がする、雰囲気だけがある場所に過ごしても良い。それだけで相当な分の孤独は癒やされるだろう。そんなことを考えながら眠りに身を委ね、死の感覚に身を委ねていく。だけれどこの死の概念も妄想だ。なぜなら体験したことがいちどもないのだから。体に起こる何らかのホルモン反応と一緒に、死に関しての思考が浮かび、まるで死をなかば体験しているかのような気持ちになるだけだ。とても甘美な感覚だ。ただひたすらに悲しいが、生への執着も、今では燃えるような業火ではなく、ただ酸っぱいレモンのように感じる。もっとだいじなことを何個も考えた気がするのだけれど、次の朝になった今は、もう色々なことを忘れてしまった。なぜ人が死ぬのかという問いに答えはなく、Twitterでもバスったり話題になったりはしない。死に関する何かのベストセラーが最近、邦訳されて話題になっていた。ちょっとした売上を記録していたような。だけどその本が日本で10万冊売れたとしても、1億数千人の中で、死に興味を抱く人は、ほんのわずかだ。内心でひそかに死に取り憑かれる人もいるだろう。余命宣告を受けた人など。だけど相当に視聴者好みをするストーリーでも作らなければ、やはり、死は大きな話題にはのぼらない。この世の中から苦痛をもってして、あるいは安らかな笑顔で、ひとりひとりと人知れずに消えていくが、まるで永劫に続くかのように、町並みでは、人が笑いながら歩いている。それを見るとまるで、この世界に闇や苦痛など存在しないかのようだ。僕は死ぬことも、死ぬ間際に起こるであろう苦痛もとても怖い。僕は死に取り憑かれている。死について書かれたその本は、いちど開いてみた。通りがかりに。だけど僕が求めるようなものではなかった。とても哲学的で、ただの思考練習、思考実験をしているような、古きゆかしき哲学書のような本だった。そうではない。死の本質は思考で完結するようなものではない。圧倒的な恐れの感覚とともに、生命の本質に迫るものでなければいけない。だけど僕には前野隆司の本があるので、もう大丈夫。問題の80%以上は解決している。小説の教団Xもある。本棚に飾っておこうか。表紙だけが見えるような、インテリア用の本棚を部屋に置こう。いつ死んでも悲しくないような、人生で読んできた本のインテリアを、部屋に置いても、いずれ処分はされる。今は朝。死の実感はすっかりと影を潜め、僕は影あそび、ただただ実感のない文字を連ねながら、あの実感の中で見つけられたものを、再発見しようとするが、できず、空虚に。昨夜は死についてよく考えた。その後によく眠ると、体にエネルギーが起こり、生命について実感し、考えることが出来る。夜は死ぬことを考え、朝は生きることを考える。もっともっと人生の終わりについて、実感しながら生きて、死んでいけますように。死ぬは生きることであり、生きることは滅びることだ。この実感なくしては、生まれてきた意味がない。意味が消えるまで、意味を考え続ける、妄想の心と、思考実験のキーボード。


- [Twitter](https://twitter.com/YumaInaura/status/1105228501001687041)

# en

A popular lecture at Yale University "What is" Death "did not sound in
my mind. This morning is also Starbucks in the morning. Because I
slept well and the sun came up, there is a glitter of energy. The
spinal stenosis is surprisingly good for some reason, and there is the
joy that humans can walk. Walking is a very complex feature. Only a
little, the module of the body breaks and it does not go well. The
foot module is working hard. Grasp the balancing module, the hand
module as both wings, and the tight rucksack string. The awareness
module stares at it, and the smartphone module wonders whether it will
stop and look at the smartphone. But for now, let's talk last night. I
have been deceived recently. Or to a delusion of death. The latter
understanding is correct. It may be related that the body is a little
troubled. I am 35 years old. It may be that this magical age is
affecting. I want a plain white drawing paper. There is such a big
drawing paper that no trivial font is noticeable. Last night, when I
was relaxing on a highback reclining sofa where people would not be
good, death was coming. Nowadays, I just have to tear down my life.
Because it is a buddy who has already been associated for 35 years in
human time, it can not be helped if attachment is peeped. It is no
exaggeration to say that he was alone in the room to feel death. I can
hear only a few sounds of my wife cooking from a distance. A little
bit of music that my wife did for me. I want to open the MacBook, I
want to do Twitter, but without the energy, I leave myself to the
pressure of sleep. Although the bond of ego will be broken down from a
moderate level, it is not so unusual for me anymore. The work of
modules that are usually strongly coupled is only loosened. Self is
caused by bonding. When you think of Twitter, it is not a reality, it
only happens the moment you look at Twitter. Everything else is a
delusion in the mind. It may be just what forms a Twitter including a
chain of delusions. I really like the music I can hear from afar. If
you are alone, you are too lonely. I really feel the noise of people,
it's an atmosphere ..

# tw

耶魯大學的一篇熱門講座"什麼是死亡"在我的腦海裡聽起來並沒有。今天早上早上也是星巴克。因為我睡得很好,太陽升起,有一種閃光的能量。由於某種原因,椎管狹窄出乎意料地好,並且人類可以走路。散步是一個非常複雜的功能。只有一點點,身體的模塊破裂,並不順利。腳模塊正在努力工作。抓住平衡模塊,手動模塊作為兩個機翼,以及緊湊的背包繩。意識模塊盯著它,智能手機模塊想知道它是否會停下來看看智能手機。但就目前而言,讓我們昨晚談談。我最近被騙了。或者是對死亡的妄想。後者的理解是正確的。可能與身體有點困擾有關。我今年35歲。可能這個神奇的時代正在影響著。我想要一張普通的白色繪圖紙。有這麼大的繪圖紙,沒有瑣碎的字體是顯而易見的。昨晚,當我在高背斜倚沙發上放鬆,人們不會好的時候,死亡即將來臨。如今,我只需要摧毀我的生命。因為它是一個已經在人類時間裡已經聯繫了35年的伙伴,所以如果附著被偷看就無法幫助。可以毫不誇張地說,他獨自一人在房間裡感到死亡。我只聽到妻子從遠處做飯的一些聲音。我妻子為我做的一點音樂。我想打開MacBook,我想做Twitter,但沒有精力,我就讓自己陷入沉睡的壓力之中。雖然自我的紐帶會從適度的水平被打破,但對我來說並不是那麼不尋常。通常強耦合的模塊的工作只是鬆散了。自我是由粘合引起的。當你想到Twitter時,它不是現實,它只會在你看Twitter時發生。其他一切都是頭腦中的錯覺。它可能正是形成一個包括一系列妄想的Twitter的形式。我真的很喜歡遠處聽到的音樂。如果你一個人,你太孤單了。我真的感受到了人們的喧囂,這是一種氛圍......

# hi

येल यूनिवर्सिटी में एक लोकप्रिय व्याख्यान "क्या है" मौत "मेरे दिमाग
में नहीं आया। यह सुबह भी स्टारबक्स है। क्योंकि मैं अच्छी तरह से सोया
था और सूरज ऊपर आया था, ऊर्जा की चमक है। स्पाइनल स्टेनोसिस किसी कारण से
आश्चर्यजनक रूप से अच्छा है, और वह आनंद है जो मनुष्य चल सकता है। चलना
एक बहुत ही जटिल विशेषता है। केवल थोड़ा सा, शरीर का मॉड्यूल टूट जाता है
और यह ठीक नहीं होता है। फुट मॉड्यूल कड़ी मेहनत कर रहा है। संतुलन
मॉड्यूल, दोनों पंखों के रूप में हाथ मॉड्यूल, और तंग रूकसाक स्ट्रिंग
समझें। जागरूकता मॉड्यूल इसे घूरता है, और स्मार्टफोन मॉड्यूल आश्चर्य
करता है कि क्या यह बंद हो जाएगा और स्मार्टफोन को देखेगा। लेकिन अभी के
लिए, कल रात बात करते हैं। मुझे हाल ही में धोखा दिया गया है। या मौत का
भ्रम। बाद की समझ सही है। यह संबंधित हो सकता है कि शरीर थोड़ा परेशान
है। मेरी उम्र 35 साल है। हो सकता है कि यह जादुई उम्र प्रभावित कर रही
हो। मुझे एक सादा सफेद ड्राइंग पेपर चाहिए। इतना बड़ा ड्राइंग पेपर है कि
कोई भी तुच्छ फ़ॉन्ट ध्यान देने योग्य नहीं है। कल रात, जब मैं एक हाईबैक
रिक्लाइनिंग सोफे पर आराम कर रहा था, जहाँ लोग अच्छे नहीं होंगे, मौत आ
रही थी। आजकल तो बस मुझे अपनी जान से हाथ धोना पड़ता है। क्योंकि यह एक
ऐसा दोस्त है जो पहले से ही मानव समय में 35 वर्षों से जुड़ा हुआ है, अगर
आसक्ति को झाँकने में मदद नहीं की जा सकती। यह कहना कोई अतिशयोक्ति नहीं
है कि वह मृत्यु को महसूस करने के लिए कमरे में अकेला था। मैं अपनी पत्नी
की कुछ आवाजें दूर से ही सुनता हूँ। थोड़ा सा संगीत जो मेरी पत्नी ने
मेरे लिए किया था। मैं मैकबुक खोलना चाहता हूं, मैं ट्विटर करना चाहता
हूं, लेकिन ऊर्जा के बिना, मैं खुद को नींद के दबाव में छोड़ देता हूं।
यद्यपि अहंकार का बंधन एक मध्यम स्तर से टूट जाएगा, यह मेरे लिए अब उतना
असामान्य नहीं है। आमतौर पर दृढ़ता से युग्मित होने वाले मॉड्यूल का काम
केवल ढीला होता है। स्व संबंध के कारण होता है। यदि आप ट्विटर के बारे
में सोचते हैं, तो यह वास्तविकता नहीं है, यह केवल उसी क्षण होता है जब
आप ट्विटर को देखते हैं। बाकी सब मन में एक भ्रम है। हो सकता है कि यह
सिर्फ एक ट्विटर हो, जिसमें भ्रम की श्रृंखला शामिल है। मुझे वास्तव में
संगीत पसंद है जिसे मैं दूर से सुन सकता हूं। यदि आप अकेले हैं, तो आप
बहुत अकेले हैं। मैं वास्तव में लोगों के शोर को महसूस करता हूं, यह एक
वातावरण है।

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